DAIGOの祖父・竹下登の功罪とは?平成改元と消費税導入の真相
ロックミュージシャンでタレントのDAIGOがバラエティ番組で語る「優しいおじいちゃん」の素顔。その人物こそ、第74代内閣総理大臣を務め、戦後日本の政治史に巨大な足跡を残した竹下登です。
昭和から平成への元号改元の舵を取り、現在も議論が続く消費税の導入や「ふるさと創生一億円事業」を成し遂げた一方で、リクルート事件で退陣に追い込まれるなど、その生涯は栄光と挫折に満ちています。退任後も「キングメーカー」として政界を掌握し続けた竹下登の知られざる素顔、政治家としての功罪、そして名門・竹下家の全貌を詳しく紐解きます。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:早稲田大学から政界へ進出し、最大派閥「経世会」を率いて第74代内閣総理大臣を務めた戦後屈指の実力者。
- 要点2:消費税導入(税率3%)の断行や「平成」改元、ふるさと創生事業など日本社会の基盤を揺るがす大政策を実現。
- 要点3:リクルート事件で退陣を余儀なくされるも「影の総理」として君臨し、孫のDAIGOら著名人を輩出する家系を築いた。
【経歴とプロフィール】早稲田大学雄弁会から「気配りの宰相」へ上り詰めた軌跡
竹下登は1924(大正13)年2月26日、島根県飯石郡掛合町(現・雲南市)の造り酒屋の長男として生を受けました。旧制松江中学校を経て早稲田大学商学部を卒業。在学中は数々の政治家を輩出した名門サークル「早稲田大学雄弁会」に所属し、後に政界で猛威を振るう弁論術と人間関係の構築力を磨きました。
青年団活動を経て島根県議会議員を2期務めた後、1958(昭和33)年の衆議院議員選挙で旧島根全県区から初当選を果たします。以降、連続14回当選という圧倒的な選挙基盤を誇りました。
内閣官房長官や大蔵大臣などの要職を歴任する中で際立っていたのが、抜群の記憶力と細やかな配慮です。党内外の議員や官僚、地元支援者の誕生日や家族構成、冠婚葬祭の情報を克明に把握し、相手の立場に配慮した対応を徹底したことから、永田町では「気配りの宰相」と称されました。
【政界激震の軌跡】経世会の旗揚げと金丸信・小沢一郎との権力構造
竹下登の権力基盤を語る上で欠かせないのが、自民党最大派閥を築き上げた党内抗争のドラマです。長く田中角栄率いる田中派(木曜クラブ)の大番頭として忠誠を尽くしていましたが、自らの総裁就任を目指し、1985年に派閥内勉強会「創政会」を立ち上げます。これが田中派の分裂を招き、1987年には自らの派閥である経世会(竹下派)を結成しました。
この権力掌握の過程で盟友となったのが金丸信です。二人は子ども同士を結婚させて姻戚関係を結び、「金竹(きんちく)コンビ」として自民党を完全に牛耳りました。
さらに竹下は、若手実力者として頭角を現していた小沢一郎を重用。「七奉行」の一人として抜擢し、金丸とともに強固な権力トライアングルを築きました。対立する野党ともパイプを結び、水面下の根回しで国会を動かす「国会対策政治」を完成させた竹下の調整手法は、自民党政治の代名詞となっていきます。
【平成改元と巨大政策】消費税導入と「ふるさと創生一億円」の真実
1987年11月に第74代内閣総理大臣に就任した竹下内閣は、昭和から平成の過渡期において日本の将来を左右する重要政策を次々と実行しました。
最大の功績かつ最大の議論を呼んだのが、1989(平成元)年4月の消費税導入(税率3%)です。少子高齢化を見据えた直間比率の是正(所得税偏重から消費への課税シフト)は長年の懸案でしたが、大平正芳内閣や中曽根康弘内閣がいずれも世論の猛反発で頓挫していました。竹下は持ち前の根回し力で反対派を切り崩し、政治生命を賭けて導入へと漕ぎ着けました。
また、1989年1月7日の昭和天皇崩御に伴う元号改元では、当時の小渕恵三内閣官房長官が掲げた「平成の額縁」が歴史的象徴となりました。この改元プロセスの総責任者として陣頭指揮を執ったのが竹下首相です。
さらに、バブル経済の絶頂期に全国3,245の市町村へ一律1億円を配分した「ふるさと創生一億円事業」も大きな話題を呼びました。金の延べ棒の購入や巨大人形モニュメントの建立など珍事業も生まれましたが、地方分権と地域活性化の契機となった施策として今なお語り継がれています。
【栄光からの失脚】リクルート事件の泥沼と内閣総辞職の真相
消費税導入という大業を成し遂げた竹下内閣を直撃したのが、戦後最大の疑獄事件となったリクルート事件でした。リクルートの関連会社であるコスモ・リサーチ社の未公開株が政財界の要人に幅広く譲渡されていた問題で、竹下本人や秘書、親族への巨額の資金提供が次々と発覚します。
連日の国会追及と世論の猛烈な怒りにより、内閣支持率は当時の憲政史上最低となる3.9%まで急落しました。1989年4月25日、竹下は消費税法案成立と引き換えにする形で退陣を表明。その直後、長年竹下を支え続けた金庫番の秘書・青木伊平氏が自ら命を絶つという衝撃的な悲劇が永田町を襲いました。
同年6月に内閣総辞職に追い込まれましたが、首相退任後も経世会のオーナーとして政界を裏から支配。「影の総理」「竹下院政」と呼ばれ、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一、小渕恵三らの首相擁立を主導し、2000年に世を去るまでその圧倒的影響力が衰えることはありませんでした。
【華麗なる家系図】孫・DAIGOとの絆と受け継がれる「竹下家の流儀」
竹下登の家系は、日本の政財界からエンターテインメント界まで幅広く繋がる華麗なる閨閥(けいばつ)を形成しています。
実弟の竹下亘も衆議院議員・復興大臣を務めたほか、竹下の次女・まる子氏の夫は元TBS役員の内藤武宣氏です。その夫妻の長男が漫画家の影木栄貴氏、そして次男がミュージシャンでタレントのDAIGO(本名:内藤大湖)です。DAIGOが女優の北川景子と結婚したことで、竹下家の家系図はさらに豪華なものとなりました。
DAIGOがメディアで語る祖父・竹下登のエピソードは、政治家の冷徹なイメージとは対照的な温かい人柄を伝えています。
- 家庭内では一度も大声を出したり怒ったりしたことがなかった
- 孫たちに「ウィッシュ」を思わせる柔和な笑顔でお小遣いを配っていた
- テストで赤点を取っても「健康で元気に育ってくれればそれでいい」と励ました
DAIGOの誰からも好かれる人懐っこいキャラクターや抜群のバランス感覚は、政界を人間力で渡り歩いた祖父・竹下登のDNAが色濃く受け継がれている証拠と言えます。
【功績と評価】「汗は自分でかきましょう」名言に見る卓越した人間力と晩年の病魔
竹下登の政治手腕を象徴するのが、今なおビジネスや組織運営の教訓として引用される数々の名言・語録です。
「汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう」という言葉は、自らは黒子に徹して他者を立てる竹下流マネジメントの極致でした。また、複雑な政治的駆け引きの中で本音を覆い隠す答弁スタイルは「言語明瞭、意味不明瞭」と揶揄されつつも、無用な対立を避ける高度な政治技術でもありました。
晩年は持病の変形性脊椎症の治療のため長期入院を余儀なくされ、政界の表舞台から姿を消します。2000(平成12)年5月には病床から政界引退を表明。その翌月の6月19日、膵臓がんによる呼吸不全のため76歳で逝去しました。
金権体質や派閥談合政治の元凶として批判を浴びる一方で、激動の時代に消費税という国家財政の根幹を築き上げ、卓越した調整力で国政の混乱を最小限に抑え込んだ手腕は、指導者不在が叫ばれる現代において再評価の機運が高まっています。
【竹下登】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:竹下登元首相とDAIGOはどのような関係ですか?
A1:竹下登はDAIGOの母方の祖父(おじいちゃん)にあたります。DAIGOの母親である内藤まる子氏が竹下登の次女です。DAIGOはバラエティ番組等で祖父との心温まる思い出や、竹下家のユニークな逸話をたびたび披露しています。
Q2:竹下登が導入した消費税は最初何%でしたか?
A2:1989(平成元)年4月1日の導入当初は税率3%でした。国民の強い反対を押し切って導入された制度ですが、その後の社会保障財源を支える重要な基盤となりました。
Q3:竹下登の派閥「経世会」はなぜそれほど強かったのですか?
A3:田中角栄から引き継いだ圧倒的な資金力と結束力に加え、道路・建設などの利権配分を差配する族議員を多数抱えていたためです。さらに、金丸信や小沢一郎ら実力者との役割分担と野党を取り込む巧みな国対政治により、長きにわたり自民党を支配しました。
まとめ:激動の昭和・平成を動かした稀代の政治家が遺したもの
昭和の高度経済成長の終焉から平成という新たな時代への架け橋となった竹下登。消費税導入という不人気な大改革をやり抜いた胆力、緻密な人間関係の構築によって国政を動かした調整能力は、戦後政治史における稀代のリアリストの真骨頂でした。
リクルート事件や派閥政治の弊害といった負の側面を抱えながらも、彼が築いた財政の枠組みや地方への視点は、令和の日本社会にも深い影響を与え続けています。名門政治家の功罪と孫のDAIGOへと受け継がれた人間味あふれる精神は、これからも語り継がれるはずです。 (出典: 竹下 登(Yahoo!ニュース))