【真相】後藤組の解散理由と現在|後藤忠政の動向と『憚りながら』の衝撃
静岡県富士宮市を本拠地とし、かつて六代目山口組きっての武闘派組織として裏社会に君臨した「後藤組」。政財界や宗教界との深いパイプを持ち、数々の経済事件や抗争で世間を震撼させましたが、2008年秋に電撃的な解散へと追い込まれました。
組織の解散劇から年月が経過した2026年現在も、その圧倒的な影響力と数々の謎は色褪せていません。初代組長・後藤忠政氏のカンボジアでの足跡、ベストセラー告白本『憚りながら』で暴露されたタブー、そして地盤を引き継いだ傘下組織の行方まで、激動の軌跡と現在の実像に迫ります。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:後藤組の解散は2008年、執行部との路線対立や誕生日ゴルフコンペ問題を機に下された「除籍処分」が直接の引き金となった。
- 要点2:初代組長の後藤忠政氏は引退後に得度してカンボジアへ渡り、事業活動や巨額の慈善支援によって現地で最高位の爵位を授与された。
- 要点3:解散後の地盤は「良知組」と「藤友会」に分割継承され、警察当局による徹底包囲が続く現在も静岡の勢力図に爪痕を残している。
【発端と激震】後藤組の解散理由|執行部との確執と電撃処分の内幕
2008年10月、指定暴力団山口組の総本部から発せられた一枚の処分通知が、暴力団社会のみならず警察当局やメディアを大きく揺るがしました。武闘派・経済ヤクザとしてその名を全国に轟かせていた後藤組組長・後藤忠政氏に対する除籍処分です。
処分の直接的な発端とされたのは、同年9月に静岡県内で開催された後藤氏の誕生日ゴルフコンペでした。この宴席には多数の有名芸能人や著名人が招かれていましたが、当時山口組執行部が定めていた重要行事である「定例会」と日程が重複。執行部は病気療養を理由に定例会を欠席した直後のゴルフ開催を重大な規律違反と見なしました。
しかし、真の理由は単なるコンペ問題にとどまりません。当時、司忍組長(服役中)に代わって組織を取り仕切っていた高山清司若頭を中心とする新執行部体制に対し、絶大な資金力と武力を誇る後藤氏が強い発言力を持ち、公然と反発を強めていたことが根本的な要因でした。処分に不満を抱いた後藤氏に近い直参組長らが執行部に連名で抗議状を提出する事態に発展したものの、執行部側は電光石火の速さで首謀者と目された後藤氏を除籍。これにより、後藤組は組織としての看板を下ろし、電撃的な解散を余儀なくされたのです。
【歴代組長と組織の軌跡】富士宮から全国へ勢力を伸ばした武闘派の系譜
後藤組の原点は、静岡県富士宮市にあります。初代組長である後藤忠政氏は、伊堂組舎弟などを経て1969年に富士宮市で「後藤組」を結成。その後、三代目山口組直系「伊堂組」の幹部を経て、四代目山口組発足時に直参(直系組長)へと昇格を果たしました。
組織の歴代体制を語る上で、実質的なトップとして君臨し続けたのは初代・後藤忠政氏です。後藤組は初代限りで解散したため、直系組織としての「二代目後藤組組長」は正式には存在しません。後述するように、組織の解散後は有力傘下団体がそれぞれ単独で直参へと昇格する形をとりました。
後藤組がその名を全国に知らしめたのは、冷酷無比とも評された徹底的な武闘路線でした。1980年代の一和会との「山一抗争」をはじめ、1990年代初頭の「八王子抗争」など、敵対勢力に対する過激な攻撃力は警察当局からも最警戒対象に指定。さらに武力だけでなく、不動産取引や企業舎弟を通じたフロントビジネスにもいち早く着手し、バブル期以降は莫大な資金力を有する「武闘派経済ヤクザ」の頂点として恐れられる存在へと登り詰めました。
【政官財・宗教界の暗部】衝撃の告発本『憚りながら』が暴いたタブー
解散から約2年が経過した2010年5月、日本の言論界と裏社会に激震が走ります。後藤忠政氏の回顧録『憚りながら』(宝島社)が突如出版されたのです。現役を退いた大物組長が、実名で裏社会のタブーを赤裸々に告発した本書は、累計発行部数30万部を超える異例の大ベストセラーとなりました。
特に読者を驚愕させたのが、創価学会との知られざる関係についての生々しい証言でした。1970年代から80年代にかけて、富士桜自然墓地公園の造成を巡るトラブル処理や、教団に批判的な勢力に対する裏工作・街宣活動の沈静化などにおいて、学会幹部側から後藤組側に依頼があった経緯が具体的な人名とともに暴露されたのです。
さらに同書では、野村證券や日本航空(JAL)の株主総会を巡る裏面工作、大物政治家とのパイプ、そしてアメリカのFBI(連邦捜査局)への情報提供と引き換えに行われたとされる米カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)病院での肝臓移植手術の内幕まで、国家機関や大企業を巻き込んだ衝撃の事実が白日の下に晒されました。裏社会と表社会がどのように癒着し、暴力が都合よく利用されてきたのかを浮き彫りにした同書は、現在も戦後日本の暗部を検証する第一級の資料として語り継がれています。
【カンボジアでの現在】後藤忠政氏は今どこで何をしているのか?
裏社会から完全に引退し、2009年に神奈川県の寺院で得度(出家)して僧名を授かった後藤忠政氏は、その後日本を離れ、東南アジアのカンボジアへ完全移住しました。
異国の地で後藤氏が乗り出したのは、大規模な実業と社会貢献活動でした。現地で法人を設立し、養鶏ビジネスや農場経営、不動産開発を手掛ける一方で、私財を投じて学校の建設や井戸掘り支援、孤児院への寄付など精力的な慈善活動を展開。これらの多大な功績がカンボジア政府から高く評価され、同国最高峰の勲章を授与されたほか、2012年には民間で最高位の称号である「ネアク・オックニャ(大公爵・伯爵に相当)」の爵位を授与されるに至りました。
2026年現在、後藤氏は高齢期に入り、かつての武闘派としての鋭い眼光は和らぎ、現地で悠々自適の隠遁生活を送っていると伝えられています。定期的な健康管理を行いながら、カンボジアに骨を埋める覚悟で生活を続けており、日本の捜査当局関係者も「国内の組織抗争や暴力団運営に直接関与する兆候は一切見られない」と分析しています。
【後継組織の現在地】良知組と藤友会への再編と静岡の治安勢力図
初代・後藤忠政氏の引退と後藤組の解散によって、富士宮市を中心とする強大な組織基盤はどうなったのでしょうか。その広大な地盤は、傘下の二大有力団体によって分割・継承されました。
ひとつは、後藤組で若頭を務めていた良知政志氏が率いる「良知組(りょうちぐみ)」。もうひとつは、舎弟頭を務めていた塚本修正氏率いる「藤友会(とうゆうかい)」です。2008年の後藤組解散に伴い、両組織のトップは直ちに六代目山口組の直参へと昇格。後藤組が持っていた静岡県内および首都圏の拠点を引き継ぎました。
良知組は良知政志組長の死去に伴い二代目体制へと移行し、藤友会も富士市を本拠として活動を継続。しかし、2015年に勃発した山口組の分裂騒動や、全国で加速した暴力団排除条例の厳格化、暴対法に基づく使用制限命令などの影響を受け、旧後藤組時代のような圧倒的な資金獲得や示威行動は極めて困難になっています。静岡県警をはじめとする捜査機関は、解散から十数年が経った現在も旧後藤組のDNAを引く両組織を最重点指定団体として厳重な監視下に置いています。
【後藤組】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:後藤組が解散した決定的な理由は何ですか?
A1:表向きの理由は、2008年9月に後藤忠政組長が山口組の定例会を病気欠席した直後に有名人を集めた大規模な誕生日コンペを開催したことによる「規律違反」です。しかし本質的には、司忍組長・高山清司若頭による六代目山口組の新体制に対し、後藤組が強大な資金力と影響力を盾に反発・対立していたことによる執行部の意向が最大の要因です。
Q2:初代組長の後藤忠政氏は現在何歳で、どこに滞在していますか?
A2:後藤忠政氏は1942年生まれで、現在は80代を迎えています。引退・得度後はカンボジアへ移住し、現地の実業家・慈善活動家として暮らしています。同国政府から最高位の称号を授与されており、現地を終の棲家として穏やかに過ごしていると報じられています。
Q3:後藤組の系譜を受け継ぐ団体は現在も活動していますか?
A3:はい。後藤組の解散後、傘下有力組織だった「良知組」と「藤友会」がそれぞれ六代目山口組の直参へと昇格し、地盤を継承しました。ただし、暴力団排除条例の徹底や取り締まりの強化により、かつての後藤組時代のような派手な経済活動や勢力拡大は抑え込まれています。
まとめ:武闘派集団の興亡が現代社会に遺した教訓
激しい武力抗争で裏社会を席巻し、巨大経済事件や政財界の裏工作にまで関与した「後藤組」の歴史は、昭和から平成にかけての日本の影の縮図そのものでした。
執行部との衝突による電撃解散、手記『憚りながら』による暗部の暴露、そして初代組長のカンボジア転身という劇的な展開は、ひとつの暴力団の盛衰を超え、社会構造の転換点を鮮烈に物語っています。暴排法や法整備が張り巡らされた現代、かつてのような強大な武闘派組織が再び台頭する余地はありません。後藤組が遺した数々の爪痕と教訓は、表と裏が交錯した時代の貴重な記録として、今なお検証され続けています。 (出典: 後藤 組(Yahoo!ニュース))